昼の調布飛行場にて

スポーツグライドのエンジンを切ると、静かな空気が広がった。
調布飛行場——東京都と伊豆諸島を結ぶ空の玄関口。現在は小型機が飛び交う穏やかな空港だが、その歴史は戦争と深く結びついている。
リサのゴールドウィングが隣に停まり、彼女はヘルメットを外した。
「ここ、すごく静かね。でも……なんか、少し胸が締めつけられる感じがする。」
「昔、この飛行場は陸軍の拠点だった。太平洋戦争の頃、多くの若者がここから飛び立ち、戻らなかった。」
リサは遠くの滑走路を見つめた。
「そっか……じゃあ、きっと何か残ってるんだね。」
俺は無言で頷いた。
そして、その気配はすぐに現れた。
亡魂の出現
「……お前たち、その二輪の車で空は飛べるか?」
不意に声がした。
振り向くと、そこにひとりの男が立っていた。
軍服姿の日本兵——いや、その影のような存在だった。透けて見える身体、そして静かな眼差し。

「飛べるわけないだろ。」
俺が答えると、男は静かに笑った。
「そうか。だが、私は飛んだよ。」
彼はふと空を見上げた。
「家族を守るため、私はこの場所から飛び立った。もう、戻れないことを知りながら。」
リサが俺の腕を軽く引いた。
「ねえ、この人……」
「分かってる。ここに残った亡魂だ。」
男は穏やかに話し続けた。
「昭和十六年、この飛行場は陸軍の管理下に入った。我々は首都を守るため、訓練を積み、敵機を迎え撃つ準備をしていた。」
「私は戦闘機乗りだった。ある日、迎撃の命を受け、仲間とともに空へ舞い上がった。」
彼の背中には、確かに翼が見える気がした。
「激しい戦闘の末、私は墜ちた。しかし——」
天使との約束
「気がつくと、私は空の上にいた。」
男は遠くを見つめながら言う。
「天使が迎えに来ていた。穏やかな微笑みを浮かべて、私を天へ導こうとしていた。」

「でも、私は行けなかった。」
彼は拳を握りしめた。
「家族のそばにいたかった。まだ、妻の声を聞きたかった。まだ、生まれたばかりの娘を抱きしめたかった。」
「だから、私は懇願した。どうか、もう少しだけここにいさせてくれ、と。」
「天使は……泣いていた。」
リサが息をのむのが分かった。
「天使は、何も言わずに私を置いていった。私は、そのままこの場所に残った。」
彼は微笑んだが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「それから、私はずっとここにいる。家族はやがて年老い、娘は母親になり、孫たちが生まれた。彼らは皆、幸せに生きた。私はただ、遠くから見守ることしかできなかったが——」
彼は目を閉じる。
「それでも、私は満足している。」
別れの時
「……お前たちの二輪の音を聞いた時、不思議と懐かしい気持ちになった。敵国であった国の乗り物と日本の乗り物がともに並んで走っている。世は本当に平和になった」
「お前たちは風のようだ。どこまでも駆け抜け、何かを守るように走る。その姿は、かつての我々と似ている。俺も生まれ変わったらお前たちのように平和な日本を自由に駆け巡りたいものだ」
俺は言葉を失った。ただ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。話を聞いてくれて。」
男の姿が、少しずつ薄れていく。
「私はそろそろ、行くよ。」
「どこへ?」
「分からない。でも——」
彼は微笑んだ。
「もう、行ってもいい気がする。そこの少女よあの時、私を連れて行かないでいてくれてありがとう……」
リサの方を向き彼は一筋の涙を流しながら精悍な顔つきで敬礼した。

そよ風が吹く。
次の瞬間、男の姿は消えていた。
再び、走り出す
リサが、ぽつりと呟いた。
「…私は何もしてない…兵隊さんは幸せだったのかな?」
「そうだと思う。」
エンジンをかける。スポーツグライドが低く唸る。
「さあ、行くか。」
リサのゴールドウィングも、それに応えるように鼓動する。
調布飛行場を後にし、俺たちは走り出した。
「空は飛べないけどさ——」
「俺たちは、どこへでも行ける。」
風が吹く。道が続いていく。
遠く、青空に飛行機の灯が光った。
それはまるで——彼が、空へ還っていくようだった。
