「すべては巡る。命も、出会いも、別れも。終わりは始まりへと続き、始まりはまた新たな終わりへと向かう。輪は絶えず回り、旅人はその流れの中で道を見つける。」
病室の窓から見える景色
リサが入院している病院の病室は、横須賀の海が見える高層階にあった。
病院特有の消毒液の匂いと、窓から吹き込む潮風が混ざり合う。
俺は彼女のベッドの横に座り、リサの細くなった手をそっと握った。
彼女の手の温もりは、あの日のヴェルニー公園での抱擁よりもずっと儚くなっていた。
「お兄さん……今日も来てくれたんだね。」
リサがかすれた声で微笑む。
ボーイッシュだった髪もずいぶん伸びていた。
「当たり前だろ。俺はお前のそばにいるって言ったんだからな。」
「ふふ……そっか……。」
リサの笑顔は変わらない。けれど、その頬はやせ細り、肌の色も青白くなっていた。
日に日に彼女の容態は悪くなっていく。
食事の量も減り、会話を続けるのさえ辛そうだった。
それでも、彼女は俺の前ではいつものように振る舞おうとする。

「ねぇ……お兄さん……。」
「ん?」
「お願いが……あるんだ……。」
リサはポケットから、小さな鍵を取り出した。
ゴールドウィングのキーだった。
「……これを……持って行って……。」
「お前……?」
「海ほたる……連れて行ってほしい……。」
リサの瞳が揺らぐ。
「お兄さんと……最後に……一緒に……走りたいの。」
最後に——。
その言葉が、あまりに重くのしかかる。
俺はリサの手のひらに残された鍵を見つめた。
「分かった。……絶対に、連れて行く。」
リサは安堵したように目を閉じた。

「……ありがとう……。」
俺は、彼女のか細い手を強く握りしめた。
彼女の時間が、もうわずかしか残されていないことを——理解しながら。
深夜の病室
リサの容態はさらに悪化していた。
海ほたるへ連れて行く約束をした翌日、彼女はほとんど食事をとれず、呼吸も浅くなっていた。
緩和の治療で使う麻薬もあまり効いていないらしく苦しむ様子もあったとのことだ。
医者は「このままでは外出は厳しい」と言った。
だが、リサの瞳は変わらなかった。
「……行きたい。」
彼女の声は掠れていたが、意志の強さはあの日のままだった。
俺はそんなリサの手を握り、深く息を吸った。
「……分かった。行こう。」
主治医は渋ったが、「自己責任でお願いします」と小さくため息をついた。
だが、俺はリサの願いを叶えたかった。
どんなに無謀でも、最後に彼女が望む場所へ。

夜明け前の出発
12月ももう終わろうとしている頃、横須賀の街に珍しく雪が降り始めた。
リサは病院の服の上にライディングジャケットを羽織った。
それは、あの時と同じ——ヴェルニー公園で再会したときのものだった。
「……似合ってる。」
俺はヘルメットを被せながら言った。
「うん……これ、好きだから……。」
彼女はかすかに微笑んだ。

俺はリサを抱えるようにしてゴールドウィングの後部座席に乗せた。
彼女は弱々しく俺の腰に腕を回す。
「お兄さん……暖かくていい匂い。…大好き」
「当たり前だろ。お前を寒がらせるわけにはいかないからな。」
エンジンをかけると、ゴールドウィングがゆっくりと震えた。
スポーツグライドも、静かにエンジンを鳴らして俺たちを見送る。
「行ってこい——。」
そんなふうに、俺には聞こえた。
そして、俺たちは夜明け前の横浜を抜け、アクアラインへと向かった。

海ほたるの風
空が白み始める頃、ゴールドウィングは海ほたるの駐車場に滑り込んだ。
風が強く、海の香りが辺りに漂っている。
俺は慎重にリサを降ろし、ベンチへと座らせた。
彼女は疲れ切っていたが、それでも海を見つめながら微笑んだ。
「……綺麗……。」
「来たかったんだろ?」
「うん……ずっと、来たかった……。」
リサの手が震える。
俺は彼女の肩を抱き寄せた。
「お兄さん……。」
「ん?」
「ずっと、ずっと……一緒にいたかったな……。」
「……何を弱気なことを言ってるんだ、ずっと一緒に居るさ。」
リサはそっと目を閉じた。

「ねぇ……お兄さん。」
「なんだ?」
「また……どこかで、一緒に走れるよね……?」
俺は強く頷いた。
「もちろんだ。必ず。約束する。」
リサの頬に、一筋の涙が伝う。
「……ありがとう。」
朝日が昇り始め、雲の隙間から神々しく光が漏れだす。
彼女の髪が風に揺れ、日の光で透けて金色に染まった。
それは、まるで——
天使が持つ黄金の翼のようだった。

静かな時間
リサは俺の肩にもたれながら、しばらく海を眺めていた。
強い風が吹いても、彼女は小さく微笑み、ただ静かに波の音を聞いていた。
「ここに来られて……本当に、よかった……。」
かすれる声でそう呟く。
俺は何も言わず、ただ彼女の手を包み込んだ。
リサの手は、驚くほど冷たかった。
「お前……寒くないか?」
冷たくなった彼女の手を優しくさするように温める。
今にも崩れそうなガラス細工を扱うように丁寧に。
「ううん……すごく、懐かしくて心地いい……。」

リサは薄く目を開け、俺を見つめる。
「お兄さん、抱きしめてくれる……?」
俺は迷わず彼女を抱きしめた。
細くなった体。
弱々しい呼吸。
鼓動が、ゆっくりと——少しずつ、穏やかになっていくのを感じた。
「お兄さんは旅で感じた神秘的な匂いとか…雨でぬれた大地の香りとか…ママやパパが生きてた頃に感じた午後の甘い匂いにそっくり…」
「……。」
俺は彼女の言葉を一言一句 聞き漏らさないよう丁寧に耳に刻み込む。
約束
「そろそろ戻ろう。体に障るぞ」
「うん…」
俺たちは病院に向けてバイクを走らせた。
リサはゴールドウィングの後部座席から俺の背中にもたれかかるようにして姿勢を保っている。
「ねえ……お兄さん……。」
「なんだ?」
「最後に……お願い、していい?」
「なんでも言えよ。」
リサは少しだけ俺の肩をつかむ力を強めた後、振り絞るようにしてインカム越しに話す。
「……『愛してる』って、言ってくれる?」
俺は唇をぎゅっとかみしめ涙を堪える。
「——愛してる。」
リサは、電波越しの会話で微笑んだ。
「……ふふ、ありがと……。」
その声は、今まで聞いたどの音色や音楽よりも美しく透き通っていた。
まるで箱根で一緒に見た美術館のガラスのように静かにキラキラと輝くようで。
静かに、穏やかに、リサの腕の力が抜けていった。
俺はいつの間にか、彼女の体の重みを感じなくなっていた。

最後のエンジン音
病室に沈む静寂の中、リサの小さな声がかすかに響いた。
「お兄さん……また……走ろう……ね……。」
それが、彼女の最後の言葉だった。
心電図が短い警告音を発し、そして——線を描いたまま動かなくなった。
医者が彼女の綺麗な瞳をライトで照らしてのぞき込む。
「16時16分ご臨終です。」
俺は、彼女の細い手を握りしめたまま、何も言えなかった。
世界が止まったかのように感じた。
彼女の温もりがまだそこにあるのに、もう彼女の命は尽きていた。
俺は、冷たくなっていく彼女の手を両手で優しく包み込み、さすり続ける。
堪えていても自然と嗚咽が漏れだす。

だが——
駐車場に停めてあったゴールドウィングが、静かにエンジンを鳴らした。
まるで、リサが最後の別れを告げるかのように。
俺はハッと息を飲み、無意識に天を仰ぐ。
ゴールドウィングの深いエンジン音が、病院の壁を震わせるように響き渡る。
「お願いだ……」
俺は、目を閉じ、拳を握りしめた。
「神様……どうか、彼女を連れて行かないでくれ……!」
祈るように、懇願するように、俺は叫んだ。
「風のように、どこまでも走らせてやってくれ……!」
その瞬間——
病室が、柔らかい光に包まれた。
俺はゆっくりと目を開ける。
そこには、幾人もの光の人影が、リサの周りを取り囲んでいた。
——いや、違う。彼らは、リサを迎えに来たのだ。
人影の中には調布飛行場で出会った日本兵も居る。哀悼のこもった眼差しで彼女を見下ろしていた。
「よく頑張りましたね……。」
優しい声が響いた。
リサの魂は、そっと光の中へと導かれようとしていた。
「リサ——」

俺は最後に彼女の頬を撫で、そっと微笑んだ。
「また、走ろう。必ず。」
その時——
ゴールドウィングのエンジンが、一際力強く鳴り響いた。
まるで、生まれ変わるように、深く、優しく、鼓動を響かせる。
「ああ、そうだったんだ…。私はずっとお兄さんと走り続けていたんだね…いつまでも風のように…」
病室に集まった人に囲まれながらリサは理解した。
「あなたは償いを終えました…」
天使は涙を流して微笑みながら続ける。
「子供たちが教えてくれました、あなたが人の魂を連れ帰らなかったのは子らの願いであったと」
日本兵の影は無言で彼女の亡骸に敬礼をした。

「あなたは現世を巡る中で数多の魂と出会い、そして天へと導いてきました。よく頑張りましたね…」
その言葉に合わせるように、他の光の影も彼女に光の花を彼女の周りに献花する。

「あなたの魂は愛する者と共に、悠久の時を旅する金の翼へ生まれ変わります。」
あたりが光に包まれる。
「……また、会おうね、お兄さん。」
確かに、彼女の声が聞こえた。

そして、沈む夕日が差し込む中、リサのゴールドウィングは忽然と姿を消す。
その真実を相棒のハーレーだけが温かく見守っていた——。
フロントライトに積もった雪が夕焼けの燃える日の光で溶けて涙を流しているようだった。
その瞳は慈愛に満ちていた。
「…ああ、また会おう」

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後日、火葬場から上る煙が風に煽られ彼女との永遠の別れを告げていた。
まだ俺は彼女の事を思い出す。

「お兄さん…いい匂いがする…」
「お兄さん、また走ろうね!」
「これって…運命、だよね…」
「もう、逃がさないから」
「空は飛べないけどさ——」
「……『愛してる』って、言ってくれる?」
「……また、会おうね、お兄さん。」
背中にナイフが刺さったような心の痛みを感じる。
しばらくは人知れず涙を流すこともあるだろう。
それでも俺は風の吹く限りどこまでも相棒のハーレーと一人旅を続ける。
彼女とまた一緒に走る約束を果たす為に。
これは一人孤独に飛び立った日本兵と、空で出会った天使が一つの風になって恋に落ちる物語。
いつまでも探し続けよう。
風が吹く限り、俺たちは止まらない。

第5章 完